文昌市羅豆郷 秀田村

       

 日本軍敗北のわずか半月前、1945年7月30日(農暦6月22日)未明、舗前から出動してきた日本兵は、16人づつの2部隊に分かれて、52戸、村民189人の秀田村を襲い、農作業にでていた人を除く村人全員を2軒の民家に閉じ込め、ガソリンをかけ、生きたまま焼き殺した。  140人が殺された。老人47人、青壮年24人、児童53人、妊婦9人、よその村から来ていた者7人であった。「幸逃者」は、56人だった。
 秀田村虐殺をおこなった舗前守備隊は、日本海軍海南警備府第15警備隊所属部隊であった。



犠牲者の墓
陳明宏さん(1928年生)
 「逃げて、午後1時くらいに村にもどった。家がみんな焼かれていた。  たくさんの焼け焦げた遺体が重なっていた。炭のようになっている遺体もあった。
 ある人は水桶の中に、ある人は窓のはしを つかんで、逃げだそうとする姿で死んでいた」。
   

陳貽僑さん(1925年生)
「祖母、母親、妻も4か月の子どもも、みんな焼き殺されてしまった。 人がどこに行ってしまったのか、わからなかった。 二つの家の中にたくさんの遺体が残されていて、とてもびっくりした。 村の人はみんな死んでいた。
 みんな死んでしまったので、もう自分も生きていたくないと思った。
 日本軍は、焼きつくし、奪いつくし、殺しつくした。ただただ日本の軍国主義を恨む」。
陳貽芳さん(1933年生)
「生まれて8か月の甥が、日本兵に、ゆりかごから、火のなかになげ入れられた。 父、母、兄、その妻、姉、弟、甥の7人が殺された。 日本軍は銃刀を持って、一軒ずつ家の中を探した。 私は稲草のところに隠れていた。
 あのころは日本人をすごくうらんだ。 このようなことをやった日本兵を殺せなかったことがくやしかった。
 この事件のことを日本人民に知らせなければならない。日本政府に、賠償をさせなければならない」。
   

墓碑
秀田村惨案記略
墓碑裏面
犠牲者の各家の名と人数が記されている
 
        

虐殺現場を示す陳貽僑さん
村人が押し込められ焼き殺された家の跡
舗前旧市街地(2004年12月撮影)
秀田村虐殺をおこなった舗前守備隊司令部があった
 
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